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「浄土は未来にあり」と「浄土は足下にあり」 [はじめての『高僧和讃』(その219)]

(22)「浄土は未来にあり」と「浄土は足下にあり」

 「浄土は未来にあり」は常識的で分かりやすいのですが、その根拠はどこにあるのかという根本的な疑問があります。「法然がそう言っているから」とか、「浄土の経典にそう書いてある」では答えになりません。それらはさらに「どうして法然はそんなことを言えるのか」や「経典に書いてあるからと言って、それが真理である保証はどこにあるのか」といった問いを引きだすだけです。
 「浄土は未来にあり」に根拠があるとしますと、それは「浄土は足下にあり」でしかありません。どうして「浄土は未来にあり」と言えるのかという問いには、「そのように問うているあなたの足下にすでに浄土があるじゃないか」としか答えられないのです。「いや、ぼくには不安だらけの穢土しかない、もしぼくの足下に浄土があるとするとそれは矛盾以外の何ものでもない」という答えが返ってきましたら、残念ながらそこでもう対話は閉じられてしまいます。
 本願に「あひがたくしていまあふことをえた」人の足下には浄土があります。それが矛盾であろうと何であろうと、すでに自分の足下に浄土があるのは紛れもない事実です。しかしまだ本願に遇うことができていない人にとっては「自分の脚下に浄土がある」などというのは矛盾したたわごとでしかありません。本願に「あひがたくしていまあふことをえた」とは「自分の脚下に浄土がある」という事実に気づいたということです。
 先ほど親鸞は法然の「浄土は未来にあり」を「浄土は足下にあり」へと一転させたと言いましたが、それをもっと正確に言い直しますと、親鸞は「浄土は未来にあり」の根拠として「浄土は足下にあり」という事実を上げたということです。われらが生きているのは紛れもなく穢土ですが、本願に「あひがたくしていまあふこと」により、その穢土の裏にすでに浄土があることに気づかせてもらうのです、そして浄土への旅はもうはじまっていることに気づかせてもらうのです。

タグ:親鸞を読む
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