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源空ひじりとしめしつつ [はじめての『高僧和讃』(その220)]

(23)源空ひじりとしめしつつ

 次の和讃です。

 「諸仏方便ときいたり 源空ひじりとしめしつつ 無上の信心をしへてぞ 涅槃のかどをばひらきける」(第108首)。
 「諸仏の手立てととのって、源空ひじりあらわれる、無上の信をあたえては、涅槃の門をひらきたり」。

 このうたでは諸仏と源空が一体となっています。諸仏が方便として源空としてあらわれ、人々に信心をあたえて涅槃に入らしめていると言うのです。これまで何度も法然上人は勢至菩薩や弥陀如来、あるいは道綽・善導がこの世に姿をとってあらわれた方であると言われてきましたが、ここにきて、それらは要するに諸仏の方便だと詠われるのです。第17願「十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して(ほめたたえて)わが名を称せずといはば正覚をとらじ」の一環として、諸仏が法然上人の姿となり、弥陀を咨嗟してその名を称しているのだということです。それが人々に信心を与えることになり、涅槃に入らせることになっていると。
 信心を与えられた親鸞からすれば、法然上人は「ほとけ」に他ならないということです。法然上人は1133年に美作で生まれ、9歳のとき父の横死にあうことで仏門に入り、比叡山で「智慧第一の法然房」とよばれた一人の人間ですが、その人間が親鸞にとっては「ほとけ」であるということ、ここに仏教の秘密があります。これを例えばキリスト教と比較してみればよく分かります。キリスト教では、イエスだけは特別ですが、人間と神は隔絶しています。一人の人間を、たとえその人から信仰をさずけられたかけがえのない人だとしても、神として仰ぐなどということは考えられません。そんなことは神の神聖をけがす行為として最大の罪とされます。
 しかし仏教では、すぐ目の前にいる一人の人間が「ほとけ」となるということ、だから自分もまた誰かにとって「ほとけ」となりうること、「ほとけ」とはそういう形でしか存在しないということ、ここにその特徴があります。

タグ:親鸞を読む
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