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真の知識 [はじめての『高僧和讃』(その222)]

            第12回 源空讃(その2)

(1)真の知識

 最終回となりました。源空讃の後半です。

 「真の知識にあふことは かたきがなかになほかたし 流転輪廻のきはなきは 疑情のさはりにしくぞなき」(第109首)。
 「真の知識にあうことは、むずかしいことかぎりない、流転輪廻のはてなきは、疑情のほかに理由なし」。

 この和讃で「真の知識」とは言うまでもなく善知識、すなわち本願を届けてくれるかけがえのない人のことで、親鸞にとっては法然をさします。一つ前の和讃で「諸仏方便ときいたり 源空ひじりとしめしつつ」と詠われていました。諸仏の方便として源空がこの世にあらわれ、人々に本願を手渡しているということで、親鸞にとって法然は「ほとけ」であったということです。仏教において「ほとけ」とはそういう存在であり、はるけき彼方に超然と存在するのではありません。すぐ目の前にいるどなたかがぼくに本願を手渡して下さるのであり、その方がぼくとっての「ほとけ」です。「ほとけ」にはそれ以外の存在のしようがありません。
 「真の知識」とは「ほとけ」ということです。このうたは「ほとけ」に遇うのは「かたきがなかになほかたし」と詠っているのです。そう考えてみれば親鸞が「難中至難無過斯(難の中の難、これにすぎたるはなし)」(正信偈)と言うのがよく分かります。目の前のごく普通の人が「ほとけ」だなどとどうして思えるでしょう。そんなことは疑うのが自然であり、それを信じるなどというのは常軌を逸していると言うべきです。ところが法然は「生死の家には疑をもって所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす」と言い、親鸞は「流転輪廻のきはなきは 疑情のさはりにしくぞなき」と言う。これはいったいどういうことでしょう。
 「ほとけ」に「遇う」というのはどういうことかを改めて考えたいと思います。普通、どなたかに「会う」ときは、その方がどんな人かあらかじめ分かっています。多少でもその方について分かっていなければ会いたくても会えません。でも「ほとけ」に「遇う」ときは、遇ってからはじめて「あゝ、“ほとけ”に遇った」と分かるのです。「あゝ、この方が“ほとけ”だったのか」と気づくのです。ここに問題を解く鍵があります。

タグ:親鸞を読む
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