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信と疑 [はじめての『高僧和讃』(223)]

(2)信と疑

 「ほとけ」は遇ってはじめて「ほとけ」であることに気づくということ、それまでは「ほとけ」などどこにもいないということ、ここに思いを致したい。
 親鸞は法然と遇ってはじめて「あゝ、この方が“ほとけ”なのだ」と気づいた。それまでは親鸞にとっての仏は経典のなかにいるだけだった。経典の文字のなかに寝ていたのです。ところが法然と遇ってみますと、目の前に「ほとけ」が立っておられる。そして南無阿弥陀仏の声を届けてくださるのです。そのときの親鸞の気持ちは「あひがたくしていまあふことをえたり、ききがたくしてすでにきくことをえたり」(『教行信証』序)ということばによく表されています。そしてそこから「たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」(『歎異抄』第2章)という驚くべきことばも出てくるのです。
 このように考えてきますと、真の知識に遇うことが「かたきがなかになほかたし」である所以がよく理解できます。遇ってはじめて遇ったと分かる人、それまではどこにもいない人とどうして遇うことができるでしょう。「遇う」ということばそのものが表していますように、それはもう僥倖というしかありません。「たまたま行信をえば、とをく宿縁をよろこべ」(『教行信証』序)と言うべきです。これが本願の信であるとしますと、本願を疑うというのはどういうことでしょう。答えはひとつ。まだ「ほとけ」に遇えていない人が、「ほとけ」はすぐそこにおわしますと聞かされて、そのことばを疑うということです。まだ「ほとけ」に遇っていないのですから、「ほとけ」の存在を疑うのは当然のことです。
 信か疑かということは、すでに「ほとけ」に遇ったか、いまだ遇っていないかの違いに他なりません。「流転輪廻のきはなきは 疑情のさはりにしくぞなき」とはそういう意味で、まだ「ほとけ」に遇っていないからこそ「ほとけ」を疑い、そうして「流転輪廻のきは」がありません。一方、もう「ほとけ」に遇った人は、すでに「涅槃の門」(第108首)に入っているのです。

タグ:親鸞を読む
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