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前世の縁 [はじめての『高僧和讃』(その224)]

(3)前世の縁

 ここで終わりとせずに、さらに一歩を進めたいと思います。「ほとけ」に遇うということについてです。
 「ほとけ」に「遇う」ときは、遇ってからはじめて「あゝ、“ほとけ”に遇った」と分かる、「あゝ、この方が“ほとけ”だったのか」と気づくのだと言ってきましたが、さてしかしどうして「ほとけ」に遇ったと分かるのでしょう。遇うまでは何も知らなかったのに、なぜ「あゝ、この方が“ほとけ”だ」と思えるのでしょう。親鸞が法然に遇い、「あゝ、この方だ、この方を待っていたのだ」と思ったのはどうしてか。
 ぼくの頭に浮かぶのは「前世の縁」ということばです。一人の男(女)が一人の女(男)にはじめて遇い、「あゝ、この人だ、この人に遇いたかったのだ」と思うということ。はじめて遇うのですから何も知らないはずなのに、「ようやく遇えた」と思うのは「前世の縁」と言うしかありません。前世なんて、という人もこんなときばかりは「前世の縁」にリアリティを感じざるをえないのではないでしょうか。
 そう言えばプラトンも似たことを言っていました。人は美しいものに出あったとき、どうして「あゝ、美しい」と思うのかと。誰かに美しいとはこういうことだと教えられた覚えはないのに、美しいものに出あうと「あゝ、美しい」と嘆息を漏らす。これはいったいどういうことかとプラトンは問い、そしてこう答えるのです、「われらは前世において美しさそのもの(彼はそれを“美のイデア”とよびます)にあっていたのだ、だからすでに知っているのだが、この世に生まれてきたときにそのことをすっかり忘れてしまったのだ」と。あるとき美しいものに出あって「あゝ、美しい」と思うのは、すっかり忘れていた「美のイデア」をふと思い出すからだと言うのです。
 神話的な説明ですが、そう言われると何だかそんな気がしてこないでしょうか。そしてこの説明は「ほとけ」に遇うということを考えるにあたって示唆するところが多いのではないでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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