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超越的だが内在的 [はじめての『高僧和讃』(その225)]

(4)超越的だが内在的

 先にこう言いました、まだ「ほとけ」に遇っていない人は「ほとけ」の存在を疑い、「流転輪廻のきは」がないが、一方、もう「ほとけ」に遇った人はすでに「涅槃の門」に入っていると。この「ほとけ」に遇った人、まだ遇わない人という言い方をさらに正確に言い直しますと、すでに「ほとけ」に遇っていることを想い出した人と、まだ想い出していない人ということになります。みんな遠い昔に「ほとけ」と遇っているのです。ところがそのことを忘れたままの人(忘れていることも忘れている人)と、ふとしたことでそれを想い出した人(忘れていたことに気づいた人)がいるのです。それが「流転輪廻」を続けるか、「涅槃の門」に入るかを分けている。
 さて「ほとけ」に遇うと言うのですから、「ほとけ」はあくまで他者として外なる存在です。曇鸞がはっきり示してくれましたように、浄土の教えは他力の教えであり、「ほとけ」は「向こうから」よびかけてくる存在です、「帰っておいで」と。これを超越の方向と言いましょう。「ほとけ」はあくまで超越的な存在です。この点において浄土の教えはキリスト教やイスラム教と似ています。キリスト教やイスラム教において神は絶対的に超越した存在であり、その似姿を描くことすら禁止されます(偶像崇拝の禁止)。
 しかし「ほとけ」はキリスト教の神のように単に超越的であるだけではありません。それは内在的でもあるのです。
 「ほとけ」はわれらの内にもいます。でなければ「ほとけ」に遇うことはできません。内なる「ほとけ」がいるからこそ、外なる「ほとけ」にすぐ反応することができるのです、「あゝ、この方が“ほとけ”だ」と。裏返して言いますと、外なる「ほとけ」に遇うことで、内なる「ほとけ」を想い出すのです。かくして「ほとけ」はどこまでも超越的でありながら同時に内在的であると言わねばならず、ここにはどうしようもない矛盾があります(鈴木大拙なら「即非の論理」といい、西田幾多郎なら「絶対矛盾の自己同一」と言うところでしょう)。

タグ:親鸞を読む
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