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源空光明はなたしめ [はじめての『高僧和讃』(その226)]

(5)源空光明はなたしめ

 次の和讃に進みます。

 「源空光明はなたしめ 門徒につねにみせしめき 賢哲・愚夫(げんてつ・ぐぶ)もえらばれず 豪貴・鄙賤(ごうき・ひせん)もへだてなし」(第110首)。
 「源空ひかりはなっては、門徒ひとしく仰ぎ見る。そこに賢愚の違いなく、身分の違いもへだてなし」。

 法然を「真の知識」と仰ぐ人たちにとって法然は「ほとけ」に他なりませんから、後光が差していたとしても不思議はありません。で、このうたでは「はなたしめ」や「みせしめき」といった使役の表現に留意すべきです。法然がみずから後光を放とうとし、後光を見せようとしているのではなく、法然にはそんな思いは全然ないのに、そのようになさしめられているということ。換言すれば、法然にはそんなふうには思えないのに、門徒たちには法然から後光が差しているように見えると言おうとしているのです。
 これは親鸞が『教行信証』において二種回向として明らかにしたことです。「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり」(教巻)。そもそも親鸞が回向ということばをつかうときは弥陀の回向(はたらき)を指し、われらが回向するということではありません。ですから、この文で往相回向というのは、弥陀がわれらを浄土へ往かせてくださるということであり、還相回向とは、弥陀がわれらを娑婆へ還らせてくださるということです(娑婆に還るのは衆生を利他教化するためであるのは言うまでもありません)。
 さて、われらからしますと、この二つは別のように見えますが、どちらも弥陀のはたらきとしてはひとつです。弥陀としては往相回向がそのまま還相回向であるということ、ここに二種回向の眼目があります。われらからしますと、まず浄土へ往く往相があり、しかる後に娑婆に還ってくる還相があると思えますが(往かなければ還ってこられない)、弥陀からしますと、われらの往相がそのままわれらの還相であるということです。法然自身にそんな思いはまったくないのに、門徒たちには法然から後光が差しているように見えるというのは、それが法然の還相であるということです。

タグ:親鸞を読む
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