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往相と還相 [はじめての『高僧和讃』(その227)]

(6)往相と還相

 ここで「表と裏」という補助線(幾何学の証明において不思議な力を発揮するあの補助線)を引きたいと思います。一枚の紙をイメージしていただきたいのですが、往相と還相は一枚の紙の表と裏の関係にあるということです。一枚の紙が往相で、もう一枚別の紙が還相ではなく、同じ紙の表が往相で、その裏が還相ということ。一枚の紙の表をペラッとめくればそこには裏があるのです。それはしかし紙の外から言えることで、その内からしますと、表は表、裏は裏で互いを知りません。
 ぼくらも紙と同じように表と裏があるのですが、裏を見ることはできませんし、そもそも裏があることに気づいていません。表といいますのは「わたしのいのち」で、裏が「ほとけのいのち」ですが、ぼくらには「わたしのいのち」しか見えず、その裏に「ほとけのいのち」があるなどと思いもしません。ところがあるときふと裏に「ほとけのいのち」があることに気づかされるのです(自分で気づくことはできません、外から気づかせてもらうしかありません)。
 それまで「わたしのいのち」を生きているとしか思っていなかったのに、それがそのままで「ほとけのいのち」を生きていることなのだと気づく。
 裏に「ほとけのいのち」があると気づくと言っても、それを自分で見ることはできません。ところがそれが他の人には見えるのです。自分で自分の背中を見ることはできませんが、他の人には見えます。これが還相です。法然は「わたしのいのち」を生きることが同時に「ほとけのいのち」を生きることだと気づいていたでしょう。でも裏(背中)に貼りついている「ほとけのいのち」を自分で見ることはできません。しかし法然を「真の知識」と仰ぐ門徒たちにはその背中を見ることができ、そこから後光が差しているのを感じていたのです。

タグ:親鸞を読む
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