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真と仮 [はじめての『高僧和讃』(その229)]

(8)真と仮

 これまで述べてきました親鸞の往生の考え方や往相・還相の考え方からしますと、これらの法然のことばはそのままでは受け入れがたいものがあるに違いありません。親鸞としては、本願に遇えたそのときが往生のときであり、死んでから往生するのではありませんし、ましてや何度も往生するなどありえません。また、まず往相があり、しかる後に還相があるのではなく、往相がそのまま還相ですから、浄土へ往生してからまた娑婆に還ってくるというのも納得しがたいことでしょう。
 しかしどうやら親鸞は世の通俗的な往生観に対して目くじらをたてることなくおおらかに対応していたようです。
 大方の人は、死んでから浄土へ往くのであり、そしてまた娑婆に戻ってくるのだと思っています。それに対して、いちいち「それは間違っている」と否定して回るようなことはなく、むしろ彼自身そうした通俗的な往生観にのっとって語っているような場合もあります。有阿弥陀仏への手紙のなかで「この身は、いまは、としきはまりてさふらへば、さだめてさきだちて往生しさふらはんずれば、浄土にてかならずかならずまちまひらせさふらふべし」(『末燈鈔』第12通)と語っているのなどはその典型です。
 このおおらかさは親鸞独特の「真と仮」の考え方からくるのでしょう。世のなかは真だけでは回らず仮が必要であるという発想です。
 そもそも経典からして、真だけではなく仮の教えがいっぱいあります。何度も述べてきましたように、『観経』の九品段には臨終来迎が詳しく説かれていますが(それをもとにして多くの来迎図が描かれ、それが浄土の教えとして定着していきました)、これは親鸞にとってあくまで仮の教えであり、真実は「信心を得たそのときが往生のときである」というところにあります。しかしだからと言って親鸞は仮の教えを否定することはありません。むしろ仮の教えが説かれていることを大切にしようとします。

タグ:親鸞を読む
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