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意味の地層 [はじめての『高僧和讃』(その230)]

(9)意味の地層

 仮の教えは真の教えへと導くための方便として位置づけられますが、親鸞にとってそれだけではなく、もっと大きな意味があるような気がします。
 ぼくらがものを言おうとするとどうしても仮になってしまうということです。釈迦が悟りをひらいたあと、それを人に語ろうとしなかったと伝えられますが、それは、人に語ろうとすると、ことばに頼らざるを得ず、それぞれの語彙のもつニュアンスや文法構造に規定されて、どうしても真実からズレて理解されてしまう危険があると感じたからではないでしょうか。しかし釈迦はついに語りはじめます(初転法輪)。黙ったままでいることはできなかったのです。誤解される危険を感じながら慎重に語りはじめたと思います。
 ぼくらもことばをもちいて語らざるを得ない以上、そこに潜む危険を十分に踏まえつつ、しかし積極的に語らなければなりません。語らなければならないと言うより、語らざるをえないと言うべきでしょう。釈迦と同じく、黙ったままでいることはできないからです。そのとき、どこまでいっても仮の言い方でしかないという自覚がなければなりません。親鸞は弟子への手紙で「信心のさだまるとき往生またさだまるなり」(『末燈鈔』第1通)と言いました。このことばはかなり大胆と言わなければなりませんが、これでも親鸞は慎重に語っているのではないでしょうか。もっと端的に「信心のさだまるときすなはち往生するなり」と言うこともできたと思いますが(本願成就文には「即得往生」とあります)、そうは言わず「往生さだまるなり」と語っています。
 親鸞の真意は「信心のときが往生のときである」ということに違いありません。しかしそう言い切ることにはどうしても抵抗がはたらくのです。「浄土に往生する」ということばには長い時間のなかで堆積してきた意味の地層があり、「ここは穢土であり、どこか別のところに浄土がある。したがって浄土へ往生するには、この穢土から去らなければならないが、それはいのち終えるときでしかない」という観念がこびりついているからです。

タグ:親鸞を読む
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