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「往生さだまる」という言い回し [はじめての『高僧和讃』(その231)]

(10)「往生さだまる」という言い回し

 「信心さだまるとき往生またさだまるなり」という表現は「信心がえられたとき、かならず往生できるということがさだまる」と穏やかに受け取ることもできます。「往生するのはいのち終わってからだが、その確かな約束(キップ)が信心のときにえられるのだ」という理解です。実際、その後の浄土真宗においてそのように理解されてきたのではないでしょうか。親鸞もそう受け取られるかもしれないと思いつつ、しかしそのようにしか表現できなかったのです。
 「信心をえたとき直ちに往生す」という表現はあまりにも矛盾が強すぎて、うまく受け止めてもらえない恐れがあります。そんな矛盾したもの言いはナンセンスであり、即刻退場を宣告されるかもしれません。あるいはまた逆に、信心をえたとき直ちに成仏すると勘違いされるかもしれません。しかし、信心をえたといえども、身は煩悩にまみれたまま娑婆世界のただなかにいるのですから、信心をえたときに成仏するなどというのはとんでもないことです。にもかかわらず、信心をえるとき「その心すでにつねに浄土に居す」(『末燈鈔』第3通)ことは有無を言わせない力で迫ってきます。
 さてさて、紛れもなく娑婆世界にいながら、しかし同時に浄土にいるという矛盾した事態をどう表現すべきか。
 「信心のときが往生のとき」では矛盾があまりに強すぎてはね返されるおそれがありますので、「信心さだまるとき往生またさだまる」と矛盾の色合いを薄めて表現したのではないでしょうか。ところが、そのような親鸞の思いが無視され、この表現が「あくまで往生は臨終のときであり、信心も念仏も臨終の往生にそなえてのことだ」と受けとられては元も子もありません。それでは伝統的な往生観に先祖返りです。親鸞としては信心のときが「時刻の極促」であり、そのときを境に「前念命終、後念即生」ということでなければなりません。そこで親鸞は「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」と言わなければならなかったのです。信心のときに往生がさだまるのだから、どうして臨終を待つ必要があろうか、来迎をたのむ必要があろうか、ということです。

タグ:親鸞を読む
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