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往生は信心のときでもあり、また臨終のときでもある [はじめての『高僧和讃』(その237)]

(16)往生は信心のときでもあり、また臨終のときでもある

 往生ということばには曖昧さがつきまといます。親鸞もその曖昧なことばを使わざるをえませんから、どうしても多義性が出てこざるをえないのです。あるときには「信心のときが往生のときである」と受けとれるように言い、あるときは「わたしも年をとりましたので、先に往生してあなたをお待ちしましょう」と言う。かくして「即得往生」なのか「臨終往生」なのかという争いが起こってくるのです。この曖昧さは往生を点とイメージするから生じてくるのでないかと考えてきました。往生を点ではなく線、浄土への旅としてとらえるべきではないかということです。
 往生という旅は信心のときにはじまり(より正確には、信心においてすでに往生の旅のなかにあることに気づき)、そして臨終のときに終わりをつげます。したがって往生は信心のときでもあり、また臨終のときでもあるのです。前者がその出発点で、後者がその終着点です。往生の旅は信心にはじまるということからいいますと、浄土は現在にあり、その旅のゴールは臨終であるということからいいますと、浄土は未来にあります。すでに浄土への旅のなかにあるという意味では浄土は現在です。身は穢土にありながら、「その心すでにつねに浄土に居す」のです。しかし浄土を目指しているという意味では浄土は未来です。往生という旅が完結するのはこれから先のことです。
 以上のことからわれらの人生を俯瞰してみますと、「わたし」が生まれるというのは「ほとけのいのち」が「わたしのいのち」という形をとって現れたということです。でも本願名号に遇うまではそのことに気づくことなく、ただひたすら「わたしのいのち」を生きているとしか思っていません。ところが本願名号に遇うことができますと、「わたしのいのち」はあくまで「わたしのいのち」でありながら、でも同時に「ほとけのいのち」でもあることに気づかせてもらいます。そして「わたしのいのち」が終わりをつげたとき、また「ほとけのいのち」へ還っていくのです。
 かくしてわれらが生きるということは浄土への旅をつづけることに他ならないということです。

タグ:親鸞を読む
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