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功徳は行者の身にみてり [はじめての『高僧和讃』(その238)]

(17)功徳は行者の身にみてり

 以上で源空讃が終わり、最後に結讃二首がきます。その第一首。

 「五濁悪世の衆生の 選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり」(第118首)。
 「五濁悪世に生けるもの、弥陀の本願信ずれば、ことばにならず不可思議の、功徳は行者つつみこむ」。

 何も難しいところがないうたで、すっと頭に入ってきますが、ここでは「不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり」とは具体的にどういうことかを考えたいと思います。  
 親鸞は「信巻」において「金剛の真心を獲得するものは、横に五趣八難の道をこえて、かならず現生に十種の益をう」と述べ、この和讃にいう「不可称不可説不可思議の功徳」を十種類も上げています。冥衆護持(みょうしゅごじ)の益、至徳具足の益、転悪成善(てんなくじょうぜん)の益とつづくのですが、それらは最後の入正定聚の益ひとつに集約されるのではないでしょうか。「正定聚に入る」とは、往生の旅がはじまることです。選択本願を信ずることの功徳とは、往生の旅のなかにあることに他なりません。
 選択本願を信ずることに「よって」、往生という旅がはじまったのではありません。選択本願を信ずることに「おいて」、すでに往生という旅のなかにいることに気づいたのです。この世に生まれて以来ずっと往生という旅がつづいていたのに、これまではそのことにまったく気づかないままだった。ところが選択本願を信じてはじめてそのことに気づいたのです。「若不生者、不取正覚」の声が聞こえて、すでに往生という旅のなかにいることに気づいた。
 往生という旅のなかにいると気づくことがどういう功徳なのかと言われるかもしれません。どうしてそれが現生の利益なのかと。
 それは、そのことに気づかないままだったらどうだろうと考えてみることで明らかになります。すでに往生の旅のなかにいると気づくとは、「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで、同時に「ほとけのいのち」でもあると気づくことです。あるいは、「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」から生まれてきて、そのうちまた「ほとけのいのち」に還るのだと気づくことです。反対に、それに気づかないということは、「わたしのいのち」はただ「わたしのいのち」であって、それ以外の何ものでもないということです。

タグ:親鸞を読む
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