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「わたしのいのち」 [はじめての『高僧和讃』(その239)]

(18)「わたしのいのち」

 「わたしのいのち」はただ「わたしのいのち」であって、それ以上でも以下でもないと思うことに何の問題があるのかと言われるかもしれません。釈迦に答えてもらいましょう。「わがものであると執着して、動揺している人々を見よ。ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。これを見て、『わがもの』という思いを離れて行なうべきである」(『スッタニパータ』)。「わたしのいのち」という言い回しのなかに「わたしのいのちはわたしのものである」ということが含まれています。「わたしのいのち」を「わがもの」とするということです。
 ぼくらが生きるということは、「わがもの」である「わたしのいのち」を維持しようとすることです。そして「わたしのいのち」を維持するために、これを「わがもの」とし、あれも「わがもの」にしようと日々努力を重ねているのです(これが貪欲です)。その努力が報われると喜びを感じますが、上手くいかないと悲しみ、そして怒りを覚えます(これが瞋恚)。このようにぼくらの煩悩の正体は「わがもの」という思いであり、そしてそのおおもとにあるのが「わたしのいのち」です。
 釈迦はこうした貪欲や瞋恚などの煩悩こそがぼくらの苦しみのもとであることを教えてくれました。そして苦しみが極まるのは死においてです。死とは「わがもの」のおおもとである「わたしのいのち」がなくなることですから、その苦しみたるや、死を思うだけで気が狂いそうになるほどです。こんなふうに言いますと人生は悲惨そのもののように思えてきますが、そのわりに人々は何事もないかのように平気な顔をして日々を過ごしています。これはいったいどういうことでしょう。悲しみに顔がゆがみ、涙に明け暮れていてもよさそうなのに、けっこう楽しげにしていられるのはどうしたわけか。
 パスカルは『パンセ』のなかにその答えを用意してくれています。ひとことで言いますと「気ばらし」。「気ばらし。―人間は、死、悲惨、無知をいやすことができなかったので、自己を幸福にするために、それらをあえて考えないように工夫した」。そしてこう言います、「だが、気ばらしによって愉快になることができるのは幸福であることではないだろうか?―いや、そうではない。なぜなら、気ばらしは、よそから、外部からくる。したがってそれは依存的である」と。

タグ:親鸞を読む
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