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衆善海水のごとく [はじめての『高僧和讃』(その240)]

(19)衆善海水のごとく

 いよいよ最後の一首になりました。

 「南無阿弥陀仏をとけるには 衆善海水のごとくなり かの清浄の善身にえたり ひとしく衆生に回向せん」(第119首)。
 「南無阿弥陀仏となえては、あらゆる善が海のごと、きよらな善を身にえては、また人々にわけあたう」。

 この一首の前に、改めて七高僧の国と名前があげられています(さらには聖徳太子の名と誕生の年月日まで)。そこから考えますと、このうたで「南無阿弥陀仏をと(説)ける」のは七高僧のことであることが分かります。高僧たちが南無阿弥陀仏を称えれば、そこにあらゆる善きものが海水のようにわきいでて、高僧たちの身を包むとともに、まわりの衆生のところにも流れ出ていく、というイメージでしょうか。ともかく南無阿弥陀仏こそあらゆる善きものの源泉であるということです。南無阿弥陀仏を称えることで、ご褒美として善きものが与えられるのではありません、南無阿弥陀仏そのものがこの上なく善き贈りものなのです。
 南無阿弥陀仏とは「招喚の勅命」であると教えてくれたところに「行巻」の、いや、『教行信証』全体のハイライトがあると言えます。「招喚の勅命」という堅苦しい言い回しを平たく「帰っておいで」という呼び声と言ってきました。どこかから「帰っておいで」という声が聞こえてくる。そのときぼくらはすっかり忘れていた故郷を想い出し、そうだ、ぼくらには「いのちのふるさと」があったのだ、そこへ帰ろうとする旅のなかにあるのだ、と思う。「いのちのふるさと」を「ほとけのいのち」と言ってきました。「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」から生まれてきて、また「ほとけのいのち」に帰っていくと。
 ぼくらにとってあらゆる善きものはこの南無阿弥陀仏におさまってしまいます。南無阿弥陀仏ひとつあればもう何もいらない。「帰っておいで」の声さえ聞こえれば、どんな境遇におかれても安心して生きていくことができるからです。

                (第12回 完)

タグ:親鸞を読む
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