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そもそも正信偈とは [正信偈と現代(その2)]

(2)そもそも正信偈とは

 正信偈が日々のお勤めの中心に据えられるようになったのは、蓮如によってです。それまではおそらく善導の『往生礼讃』などを読誦していたと思われますが、それを宗祖・親鸞のつくった正信偈と和讃におきかえたわけです。以来、正信偈は儀式用のありがたい文章として、それがどういう意味なのかはともかくとして、とにかく経文のようにそのまま読誦することが重視されてきました。ぼくの元同僚で、本人は真宗の信心があるわけではないのですが、家が真宗ということで、ことあるごとに正信偈とつきあってきた(つきあわされてきた)方が、「弘経大士宗師等(ぐきょうだいししゅうしとう)のくだりにくると、やれやれ終わりだとほっとした」と言われたことがあり印象に残っています。
 しかし正信偈を儀式用のありがたい文章としてたてまつるだけではあまりにもったいないと思います。先に言いましたように、短い文のなかに親鸞の他力思想のエッセンスが込められているのです。漢文で書かれていて、しかも短く凝縮されていますから、何を言っているのかを汲み取るのは苦労しますが、そこにはぼくらがこの人生をどう生きたらいいのかについてかけがえのない指針が示されています。ですから、それを日々の生活に生かさない手はありません。
 さて、そもそも正信偈とは何かについて、ひととおりお話しておかなければなりません。正式には「正信念仏偈」と言います。親鸞の主著である『教行信証』、こちらも正式には『顕浄土真実教行証文類』(浄土の真実の教・行・証に関する文類、つまり重要な経文や論釈の集成)と言いますが、そのなかにおさめられている親鸞製作の偈、すなわち漢文の詩(うた)です。『教行信証』は6巻立てで、教巻(浄土の教え)、行巻(名号を称えるという行)、信巻(本願・名号の信心)、証巻(仏となるという証)、真仏土巻(真実の仏と仏土)、化身土巻(方便の仏と仏土)という構成になっていますが、正信念仏偈はその中の行巻の末尾におかれています。

タグ:親鸞を読む
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