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南無阿弥陀仏 [正信偈と現代(その5)]

(5)南無阿弥陀仏

 「南無阿弥陀仏」とは「阿弥陀仏に帰命いたします」ということですから、これはわれらが阿弥陀仏に向かって申し上げることばであるのは当然だと思います。「ナマステ」とは「あなたを敬います」ということで、「わたし」が「あなた」に向かって申し述べる挨拶であるように。ですから、こちらに「わたし」がいて、あちらに「あなた」がいるように、こちらに「われら」がいて、あちらに「阿弥陀仏」がおわすという構図になり、こちらからあちらに向かって呼びかけるということだと思います。
 ところが親鸞は不思議なことを言います、「南無阿弥陀仏」とは阿弥陀仏がわれらに呼びかける声であると(「ここをもて帰命は本願招喚の勅命なり」行巻)。こちらから呼びかけるより前に、向こうから呼びかけられているということです。
 フランスにジャック=デリダというとてつもなく難解なことを言う哲学者がいます。もう10年以上前に亡くなりましたから、いましたと言うべきでしょうか。何度か彼の本を読もうと試みたことがありますが、その都度はねかえされました(どうも頭のつくりが根本的に違うようです)。それでも、何とか彼の言おうとすることが分かったような気がすることはあり、なかでも、「どんな発信もかならず返信である」という趣旨の彼のことばには満腔の共感をおぼえました。
 例えば、だれかに「アロー(もしもし)」と電話するとき、それに先立ってその人からすでに「アロー」と(耳にではなくこころに)語りかけられているというのです。すでに「アロー」と語りかけられているから、それに応じて「アロー」と返信するのだと。家の近くを散歩しているとき、見知らぬ人でもこちらから「こんにちは」と挨拶することがありますが、それはそれより前に先方から(これまた耳にではなくこころに)「こんにちは」と声をかけられているように感じるからではないでしょうか。実際は、こちらが先に「こんにちは」と言い、それに先方が「こんにちは」と返すにしても。

タグ:親鸞を読む
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