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おかえり [正信偈と現代(その6)]

(6)おかえり

 「南無阿弥陀仏」も同じで、こちらが「南無阿弥陀仏」と呼びかけるのに先立って、向こうから「南無阿弥陀仏」という呼び声が(耳にではなくこころに)届くから、それに応答して「南無阿弥陀仏」と返すのだと親鸞は言うのです。本願招喚の勅命というのは、先立ってやってくる「南無阿弥陀仏」のことです。これまで「アロー」や「こんにちは」を例に上げてきましたが、「南無阿弥陀仏」も「ナマステ」と同じように挨拶ことばと考えることができます。
 「南無阿弥陀仏」にいちばんぴったりの挨拶ことばは「おかえり」でしょう。「帰っておいで」という呼びかけとしての「おかえり」。
 ぼくらは家に帰るとき「ただいま」と挨拶し、それに応えて「おかえり」が返ってきますが、ことの本来の順としては、まず「おかえり(帰っておいで)」の声が(耳にではなくこころに)届いて、それに応えるように「ただいま」と返すのではないでしょうか。もし「おかえり」の声が聞こえなかったら、「ただいま」と帰っていくことができません。お母さんの「おかえり」の声が届かない哀れな子どもたちのことが毎日と言っていいほど新聞に載りますが、その子たちには「ただいま」と帰っていく家がありません。「おかえり(帰っておいで)」の声は、「あなたが帰ってくるのを待っていますよ」という思いを伝えることばですが、受け取る側にとってはそれ自体が救いのことばです。それさえあればあとは何も要らないことば、生きる力の源となることばです。
 さて、この何ものよりも大切なことばは、自分から発信することはできません。いや、発信することはできますが、そんなことをしても何の意味もありません。「おかえり(帰っておいで)」と自分が自分に何度言っても腹が減るだけです。むこうからこの声がやってきて、それを自分が受信するからこそ力になるのです。かくして「おかえり」の発信源としての仏の存在が問題となってきます。

タグ:親鸞を読む
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