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仏の存在 [正信偈と現代(その7)]

(7)仏の存在

 日常のことばである「おかえり(帰っておいで)」の発信源はたとえば母親です。外で遊んでいる子どものこころには母親の「おかえり」の声が届いており、それが子どもの生きる力となっています。同じように娑婆世界を生きるぼくらのこころには仏の「おかえり」の声が届いていて、それがぼくらの生きる力になっています。さて母親がいることには何の問題もありませんが(たとえ母親がいなくても、それに代わる誰かがいてくれれば大丈夫)、仏となりますと、はてそんなものはどこにいるのか、と疑問符がつくことでしょう。母親の存在は自明ですが、仏の存在はそうはいきません。
 浄土の教えを説く書物(経典であれ、高僧の注釈書であれ、街中の解説書であれ)をみますと、はじめからおしまいまで阿弥陀仏を主語として(つまり阿弥陀仏という方が存在することは当たり前のこととして)書かれています。「阿弥陀仏はかくかくしかじかの仏で云々」というように、阿弥陀仏が存在するという前提のもとで、その阿弥陀仏がどうしたこうしたと説かれていくのです。まあ宗教というものはそういうものだ、という言い方もできるでしょうが、その言い方は宗教の内と外を垣根で隔ててしまうような響きがあります。
 キリスト教はユダヤ教から、すなわちユダヤ文化圏(ヘブライズムの世界)で生まれましたが、それがローマの世界(当時の人たちにとってそれは世界そのものでした)に飛躍していくためには、キリスト教の説く唯一の神の存在をローマ文化圏(ヘレニズムの世界)の人々に証明する必要がありました。そこで生まれてきたのが神学です。これはキリスト教の唯一神の存在をプラトンやアリストテレスなどの哲学を駆使して証明する壮大な試みと言えます。
 さて事情は仏についても同じでしょうか。「仏なんてどこにいるのか」と言う人に対して、かくかくしかじかの理由で仏は存在すると証明しなければならないのでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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