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自然(じねん)ということ [正信偈と現代(その9)]

(9)自然(じねん)ということ

 何かの存在を証明するということには、それが客観的に存在するという前提があります。ところが「南無阿弥陀仏(おかえり)」の声は主観的なものですから、その存在を証明することはできません。いや、証明する意味がありません。この声はある人には存在し、ある人には存在しないのですから。そんな主観的なものにどんな価値があるのか、と言われるかもしれませんが、主観的だからこそ価値があるものがあるのです。いちばん分かりやすいのが「好きです」という(耳にではなく、こころに届く)声です。これはある特定の人にだけ届き、他の人には届きません。いや、届いたら困ります。
 あらためて言います、仏(阿弥陀仏)と聞きますと、どこかに(客観的に)存在するものと思ってしまいますが、しかし阿弥陀仏とは「南無阿弥陀仏」の声であり、それ以外のなにものでもないのです。蓮如は「木像よりも絵像、絵像よりも名号」(『蓮如上人御一代記聞書』)と述べ、本尊としては「南無阿弥陀仏」がもっともいいと言いましたが、ただ、名号もまたそれを文字に表しますと、どうしてもぼくらに向かい合う対象と化してしまう恐れがあります。「南無阿弥陀仏」はあくまで「おかえり」という声であるということ、これを肝に銘じたいと思います。その声がぼくらに届き、ぼくらはそれに「はい、ただいま」と応じるということ、これだけです。
 親鸞は『末燈鈔』第5通(これは手紙文ではなく、親鸞の話を弟子が聞き書きしたものです)でその辺りの消息をこう語っています、「弥陀仏は自然のやう(様)をしらせんれう(料、手立て・方便)なり」と。その「自然」について「自然といふは、自はをのづからといふ。行者のはからひにあらず、然といふはしからしむといふことばなり」と述べていますから、阿弥陀仏というのは、救いの道はわれらがこちらから拓こうとしてもかなわず、向こうから開けてくるのだということを分からせようと、方便として仮に設えられているにすぎない、ということになります。

タグ:親鸞を読む
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