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主観的と客観的 [正信偈と現代(その10)]

(10)主観的と客観的

 「南無阿弥陀仏(おかえり)」の声は、ある人には存在し、ある人には存在しないような主観的なもの、という点についてもう少し考えておきましょう。これは普遍的な救いという浄土の教えの根幹に反するような気がするからです。ただ一人の例外もなく一切衆生を救う教えというのが浄土教ではないのでしょうか。ところが「南無阿弥陀仏」の声が、ある人には届くが、ある人には届かないというのでは、救われる人と救われない人とに分かれてしまうように思えます。ここをどう考えたらいいのでしょうか。
 「主観的」と「客観的」は対概念です。主観的であるということは客観的でないということで、客観的であるということは主観的でないということ。そしてこの対概念をつかうときは、主観的であることは否定的なことであり、客観的であることが正当であるという暗黙の了解があります。「きみの言うことは主観的な意見にすぎない」とは、相手を否定するときに言うことです。世の中のほとんどのことはこの了解で済むのですが、ただそれですべてが覆われているわけではなく、必ずしもそうではないことがあるのです。それが「救い」です。
 「南無阿弥陀仏(おかえり)」の声がこころに届く、そのこと自体が救いですが、これは主観的なことであり、主観的であるからこそ意味があるのです。そして、この声がある人に届くだけでなく、あらゆる人に届くとしても、そのことに意味があるのではなく、あくまで「ある人」のこころに届くことが救いとなるのです。『歎異抄』の後序に「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」という述懐がありますが、そのことを言っているのに違いありません。五劫思惟の願はこの親鸞一人のこころに届いたからこそ、親鸞を救ったのです。
 救いは「このわたし一人」にしかありません、つまり主観的でしかないのです。

タグ:親鸞を読む
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