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本願の建立 [正信偈と現代(その13)]

(2)本願の建立
 
 第1回の話をひと言でまとめますと、「南無阿弥陀仏」とは「おかえり(帰っておいで)」という声に他ならず、この声が届くことが救いであるということ、そして阿弥陀仏というのは、この不思議な声が向こうからやってくることを人々に分かりやすく伝えるために設えられた方便であるということでした。その阿弥陀仏の因位の姿(仏となる前の修行中の身)としての法蔵菩薩のことがここで物語られるのです。
 『無量寿経』からその部分を抜き出しますと、「その時、次に仏ありて、世自在王仏と名づけ、…(如来など仏の別号が10上げられます)。時に国王あり、仏の説法を聞きて、心に悦予(えつよ、喜び)を懐き、すなわち無上正真道の意(こころ、悟りを求める心つまり菩提心)を発(おこ)し、国を棄て、王を捐(す)てて、行きて沙門となり、号して法蔵といえり」とあります。
 法蔵菩薩が登場してくるこのくだりを読みますと、明らかに釈迦をモデルとしていることが分かります。釈迦がカピラ城の王となる地位を捨て国も棄てて苦行僧となったことをもとにして、法蔵菩薩も国王の位をすてて世自在王仏のもとで沙門となったと説かれています。そして法蔵は「われ人ともに救われん」という思いをもち諸仏の国土をくまなく見せてもらい、五劫思惟し自らの浄土をつくろうとして四十八の願を建立されたのだと語っていくのです。
 このように、釈迦という歴史的人物がモデルになっているとはいえ、これは言うまでもなくひとつの物語です。浄土の教えは法蔵菩薩の「物語」をベースにしているということ、ここにはじっくり考えなければならないことがあります。法蔵菩薩が架空の人物であるということは、阿弥陀仏もその浄土も作りものということ、ただのお話にすぎないということでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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