SSブログ
正信偈と現代(その16) ブログトップ

本願ということ [正信偈と現代(その16)]

(5)本願ということ

 現実の世界は「生きんかな」という声で占領されています。そもそもぼくらが現実の世界について何かを言うためのことば(論理)そのものが「生きんかな」という自力の原理で成り立っているのです。としますと「生かしめんかな」の声(「帰っておいで」の声です)のことを言おうとしますと、現実の世界のことばではなく、物語の世界のことばに頼らざるを得ないことになります。かくして『無量寿経』は法蔵菩薩の物語とならざるをえなくなるのです。
 法蔵の物語の中心は言うまでもなく本願です。本願は四十八もありますが、その核心は何といっても第十八願です。「十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念。若不生者、不取正覚(十方の衆生、こころをいたし信楽してわが国に生まれんとおもふてないし十念せん。若し生まれずば、正覚をとらじ)」。生きとし生けるものがこころから故郷に帰りたいと思えば、かならず帰らせてあげよう、そうでなければ正覚をとらない、ということです。「若不生者、不取正覚」、一切衆生が救われなければ自分も救われない、ここに大乗仏教の菩薩思想つまり利他の精神が集中的に表されています。
 さて、この利他=他力(「生かしめんかな」のこころ)について現実の世界のこととして語ろうとしますと、猛然と反論がわきおこってきます、そんなものがどこにあるのか、この世界は自利=自力(「生きんかな」のこころ)ばかりではないかと。そこでこれを語るためには法蔵菩薩という物語に託すしかありません、「むかし法蔵という名の菩薩がいて本願を立てられ云々」と。本願というのはプールヴァ・プラニダーナの訳で「前の(本の)願い」という意味です。阿弥陀仏が成仏する前、因位の法蔵菩薩であったときの願いということですが、これを現実の世界の前、現実の世界が成立するより前の願いと考えてみたらいかがでしょう。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
正信偈と現代(その16) ブログトップ