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名号ということ [正信偈と現代(その19)]

(8)名号ということ

 フィクションとしてしか語ることのできない真実があるという話をしてきました。ぼくらの元からの願い(生まれる前からの願い)がそれで、それを語ろうとすると、法蔵菩薩が五劫思惟の末に本願を建立したという物語とならざるをえないのです。さて、これで話は終わりではありません。ここまでですと、ぼくらには本からの願いがあり、それを語ろうとすると弥陀の本願になる、というだけのことで、それでぼくらが救われるということにはなりません。キング牧師が“I have a dream”と語っても、それで夢が実現するわけではないように。
 願いはただ願いとしてあるだけでは力になりません。「救いたい」という願いがあっても、それが具体的なかたちとして相手に届かなければ何にもならない。「救いたい」という思いが、「救おう」というメッセージとなって相手に届いてはじめて力となるのです。どれほど「源左をたすけたい」と思っても、それが源左に伝わらなければ何ものでもありません。その思いが「源左たすくる」という声として源左に聞こえたから、もうそれだけで源左はたすかったのです。願いは声とならなければならない、これが「南無阿弥陀仏」の意味です。
 法蔵菩薩の本願は名号とならなければなりません。
 最後の一句、「重誓名声聞十方(重ねて誓うらくは、名声、十方に聞こえんと)」はそのことです。名声とは名号の声ということで、法蔵菩薩は「南無阿弥陀仏」の声が十方世界に聞こえるようにしたいと重ねて誓ったというのです。重ねてと言いますのは、法蔵菩薩は四十八願を立てたあと、さらに偈文でそれを確認しているのですが(重誓偈とよばれます)、そのなかに「われ、仏道を成ずるに至り、名声十方に超え、究竟(くきょう)して聞こゆるところなくんば、誓って正覚を成ぜじ」とあるのです。

タグ:親鸞を読む
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