SSブログ
正信偈と現代(その20) ブログトップ

十七願と十八願 [正信偈と現代(その20)]

(9)十七願と十八願

 「名声が十方世界に聞こえるように」と「重ねて」誓ったということは、四十八願のなかですでにそれが誓われているということですが、それはどこでしょうか。先ほど本願の核心は第十八の願、「十方の衆生、こころをいたし信楽してわが国に生まれんとおもふてないし十念せん。若し生まれずば、正覚をとらじ」であると言いましたが(5)、そこではありません。その一つ前の第十七の願です。「十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して(ほめたたえて)わが名を称せずといはば、正覚をとらじ」と。十方世界の無量の諸仏が名号を称えることにより、「南無阿弥陀仏」の声が世界の隅々にまで届けられるということです。
 そもそも第十七願と第十八願は一体でした。
 『無量寿経』と同系統の経典でそれよりも古い『大阿弥陀経』(親鸞は『教行信証』にどちらも引用しています)では本願は二十四しかなく、そこではこの二つが一体となっているのです。「わたしの名号を諸仏に称えさせ、生きとし生けるものがその名号をきいて喜びのこころを起こすようにしたい。そのように歓喜踊躍するものをすべてわが浄土に来生させよう。そうでなければ仏とならない」と。これをみますと前半が第十七願、後半が第十八願であることが分かります。
 よくよく考えてみますと、第十七願は第十八願がなければ、何のために諸仏が名号を称えるのかが理解できません。法蔵はまさかただ諸仏からほめられたいということではないでしょう。また逆に第十八願も第十七願がなければ、どうして衆生が「わが国に生まれんとおも」うようになるのか了解できません。先回述べましたように、「帰っておいで」という声が聞こえるからこそ、「帰りたい」という思いが生まれるのであって、衆生に「欲生我国」の思いが芽生えるには、「諸仏の称名」が不可欠なのです。
 願いは声とならなければならないということです。

                (第2回 完)

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
正信偈と現代(その20) ブログトップ