SSブログ
正信偈と現代(その22) ブログトップ

アミターバ [正信偈と現代(その22)]

(2)アミターバ

 『無量寿経』に説かれる法蔵菩薩の物語のつづきをみますと(正信偈ではふれられませんが)、法蔵は四十八願を立てたあと「不可思議の兆載の永劫において」菩薩行を積み重ね、他に類をみない仏国を建立したと書かれています。そこで阿難が釈迦に問うのです、「法蔵菩薩は成仏されたのでしょうか」と。そして釈迦が答えます、「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界、名づけて安楽という」と。阿難は重ねて問います、「成仏されてどれくらい経つのでしょうか」。釈迦が答えて「成仏よりこのかた、およそ十劫を経たまえり」と。
 この問答のあとに阿弥陀仏の浄土の荘厳(すばらしい設え)が説かれ、さらにこう続きます、「無量寿仏、(その)威神光明、最尊第一にして、諸仏の光明の及ぶこと能わざるところなり。…このゆえに無量寿仏を、無量光仏、無辺光仏、…超日月光仏と号す」と。そしてこの光明の効用について「それ衆生ありて、この光に遇う者、三垢(さんく、貪・瞋・痴)消滅し、身意柔軟にして、歓喜踊躍し、善心生ず」と説きます。このように阿弥陀仏は「ひかりの仏」であることが詠われるのです。
 第十二の願に「もし光に限りがあるようなら正覚をとらない」と誓われていたのが成就したのですから、その光は無量でなければなりません。アミターバ(amitaが「限りない」、abhaが「光」で、無量光)です。そして阿弥陀仏は無量光仏であるだけでなく、無辺光仏、無碍光仏、等々であると説かれていくのですが、ここではそれぞれの意味にこだわるのはやめにして(『浄土和讃』で十二光仏の一つひとつについて丁寧に詠われています)、どうして阿弥陀仏は「ひかりの仏」であるのかという一点に絞って考えたいと思います。
 阿弥陀仏は「ひかりの仏」であるということ、いや、阿弥陀仏とは「ひかり」そのものであるということ、ここに注目したいのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
正信偈と現代(その22) ブログトップ