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千年の闇室 [正信偈と現代(その23)]

(3)千年の闇室

 阿弥陀仏とは「われ人ともに救われん」という「ねがい」(本願)そのものであり、そしてその「ねがい」は「帰っておいで」という「こえ」(名号)としてぼくらに届き、さらにその「ねがい」は「ひかり」(光明)となってぼくらを照らすのですから、弥陀と本願と名号と光明はみなひとつです。さて「ねがい」が「こえ」となってぼくらに届くというのは何の解説もいりませんが、「ねがい」が「ひかり」となってぼくらを照らすということはそのまますんなり頭に収まるわけにはいきません。
 そこで「ひかり」について思いを廻らせてみましょう。
 曇鸞は『論註』で難しいことを比類のない譬えで分かりやすくしてくれますが(ことばにならないことをことばにするには、つまるところ譬えるしかありません)、その一つに「千年の闇室」の譬えがあります。千年のあいだ闇に閉ざされていた部屋に、一筋のひかりが射し込むと、一瞬にして明るくなる。千年のあいだ暗かったのだから、明るくなるにもまた千年かかるかというと、一筋のひかりが射し込むだけで一瞬に明るくなる、何と不思議なことかと言うのです。
 誰かが千日かけて歩いた道は、また千日かけて歩かなければカバーすることができませんが、「ひかり」は一瞬にして到達します。いや、気がついたときは「もうすでに」到達していた。千年の闇室にいた人が、ふと気づくと「もうすでに」部屋全体が明るくなっていたのです。この話は、これまた中国のお話「邯鄲(かんたん)の夢」を思い出させてくれます。一人の貧しい青年が趙の都・邯鄲で不思議な枕を授かり、長い一生の夢を見たというお話です。それは波乱万丈、栄枯盛衰の一生でしたが、ふと目覚めると、寝る前に煮はじめたお粥がぐつぐつと音を立てていて、「あゝ、一瞬の夢であったか」と気づいたというのです。
 一筋のひかりが射し込むというのは、夢から目覚める経験に似ています。

タグ:親鸞を読む
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