SSブログ
正信偈と現代(その24) ブログトップ

プラサーダ [正信偈と現代(その24)]

(4)プラサーダ

 第十八願に「至心に信楽し」とあり、その成就文に「その名号を聞きて信心歓喜せん」とある「信楽」、「信心歓喜」に当たるサンスクリットは「プラサーダ」で、こころが澄むという意味です。これまで濁っていたこころが、あるとき突然さあーっと澄むということ、これを「信楽」とか「信心歓喜」と漢訳しているのです。「プラサーダ」は「浄信」と訳されることもありますが、康僧鎧(こうそうがい)の『無量寿経』では、こころの濁りが澄むのは喜ばしいことということで、信楽とか信心歓喜と訳したのでしょう。
 このように信心とは濁ったこころが澄むことであるのは示唆するところが大きい。
 先ほど真っ暗だった部屋に一条のひかりが射し込むのは、夢から目覚めることによく似ているといいましたが、それは、これまで混濁していたこころがさあーっと澄むということでしょう。そしてそれが信じるということであり、信じるというのは、一条のひかりが射し込むことにより夢から覚めることに他なりません。「ねがい」(本願)が「こえ」(名号)となってぼくらに届くとともに、「ひかり」(光明)となってぼくらを照らすというのは、南無阿弥陀仏の「こえ」が聞こえるとともに、一条のひかりが射し込んで、これまで混濁していたこころが澄み、その奥にこれまで気づかなかった「ねがい」(本願)が息づいているのにふと気づくということです。
 本願成就文に「聞其名号、信心歓喜」とあるのは、それを言っているに違いありません。
 信じるというのは、「こえ」が聞こえることであるとともに、「ひかり」に照らされることであるのがはっきりしました。ここから見えてくることがいくつかありますが、まず言えるのは「こえ」も「ひかり」も向こうからやってくるということです。こちらから「こえ」を出し「ひかり」を発することもできるでしょうが、そのような「こえ」、「ひかり」は何の力にもなりません。向こうからやってきてはじめて意味があるということ、これが「信心はたまわるもの」ということです。
 信じるとは夢から覚めることですが、自分で夢から覚めようと思ってもかないません。あるときふと目覚めるのです。目覚めはたまわるしかありません。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
正信偈と現代(その24) ブログトップ