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身体で感じる [正信偈と現代(その25)]

(5)身体で感じる

 つぎに言えるのは、向こうからやってくる「こえ」と「ひかり」は身体に届くということ、身体に感じるものだということです。ぼくらはとかく理性による能動性を大事にしますが、生きる上でもっとも肝心なことは身体で感受するしかないということ、この受動性に注目しなければならないと思います。それをとりわけ強く意識するようになったのは、あの津波による原発事故です。
 多くの人が言われていますように、ぼくらは自然の力を侮っていたとしか思えません。人為的なミスによる事故はあるかもしれないが、どんな地震が起こっても、どんな津波が来ても原発が壊れるはずがない、何重にも備えをしているから絶対大丈夫と専門家が言い、ぼくらも高をくくっていたところがあります。でも自然の力はそれをはるかに上回るものでした。やはり自然を侮っていたのです。
 自然を侮ることは、もっとも身近な自然である身体を侮ることです。
 身体で感じることなんてあてにならない、頭で理解することが大事と言いますが、これは頭が身体を侮っているのです。しかし、生きていく上でもっとも大切なことは頭にではなく身体に届きます。頭がどんなに威張っていても「いのちのこえ」と「いのちのひかり」は頭には届きません、身体に届くのです。頭はむしろそれに疑いをさしはさみます、「そんなのは幻ではないのか」と。しかし身体はこう言うでしょう、「きみには幻かもしれないが、ぼくには紛れもない事実だよ」と。
 そして、この「ひかり」が身体に届くとき何が起こるかということですが、『無量寿経』にこうありました、「この光に遇う者、三垢消滅し、身意柔軟にして、歓喜踊躍し、善心生ず」と。ここにある「身意柔軟にして」に注目したいと思います。「ひかり」に遇うことができますと、身もこころ(身意の意とはこころです)も柔軟になるということ、これは多くのことを示唆してくれます。

タグ:親鸞を読む
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