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握りしめない [正信偈と現代(その27)]

(7)握りしめない

 ぼくらは「これが善だ」、「これは悪だ」と手を握りしめ、身もこころもごわごわにこわばっているのですが、不思議な「ひかり」に照らされますと、「よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと」と見えてくる。そうしますと握りしめていた手がおのずと開く。これが身もこころも柔らかくなるということです。これはしかし「善も悪もない」ということではありません。世の中には善があり、悪があるですが、ただ「これは絶対に善だ」、「これは絶対に悪だ」と善悪を握りしめないということです。
 どうして第18願に「唯除五逆誹謗正法(ただし五逆と誹謗正法とをば除かん)」という但し書きがついているのかという質問を受けたことがあります。十方の衆生が「こころを至して信楽してわが国に生まれんとおもふて乃至十念」すればみな往生させよう、そうでなければ正覚をとらないと誓いながら、五逆と謗法だけは例外とするのは首尾一貫しないのではないか、という疑問です。まことにもっともな疑問で、むかしから論師たちを苦しめてきたのですが、これもいまの問題とつながっています。
 「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへに」と親鸞は言います(『歎異抄』第1章)。これはうっかりすると「善も悪もどうでもいいのだ」と受け取られるかもしれません。善も悪も関係ないのだから、自由気ままに生きればいいのだ、と。これが「本願ぼこり」、「造悪無碍」につながってくるのは言うまでもありません。そうではないのだ、ということを18願の但し書きは言っているのに違いありません。本願を信じるには「善をしなければならない」、「悪をしてはならない」わけではない、しかしだからといって「善も悪もない」のではない、と。
 ことは実に微妙といわなければなりません。真理は微妙なところに宿るのです。

タグ:親鸞を読む
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