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手放す [正信偈と現代(その28)]

(8)手放す

 向こうからやってくる不思議な「ひかり」が身体に届き、身もこころも柔らかくしてくれる、ということを見てきました。何かをしっかり握りしめていた手がふっと緩んで、手が放れるのです。
 どうしてしっかり握りしめていたかと言いますと、それこそ生きるたよりだと思えたからです。聖覚(親鸞にとって兄弟子にあたる人です)は『唯信鈔』において「信じる」とはどういうことかを言おうとして、こんな分かりやすい譬えをだしています。「たとへば人ありて、たかききしのしもにありてのぼることあたはざらむに、ちからつよきひと、きしのうへにありてつなをおろして、このつなにとりつかせて、われきしのうえにひきのぼせむといはむに、ひく人のちからをうたがひ、つなのよはからむことをあやぶみて、てをおさめてこれをとらずば、さらにきしのうえにのぼることをうべからず」と。
 聖覚は、信じるとは下ろされた綱をしっかり握りしめることだと言います。それこそ生きるたよりだからです。でも、これは容易なことではありません。一瞬でも手から力が抜けますと元の木阿弥ですから、必死に握り続けなければなりませんが、そんなときふと疑いが兆すことでしょう、「ひく人のちから」は大丈夫だろうか、「つなのよはからむ」ことはないだろうか、などと。無事に岸の上まで行くには、こうした疑いに打ち克たなければならないのです。身もこころもガチガチにこわばること間違いありません。
 ところが、あの不思議な「ひかり」に照らされますと、ふと手が緩み、握っていた綱から手が放れるのです。どうして手が放れるかと言いますと、照らされた「ひかり」というのがあの「ねがい」に他ならないからです。「帰っておいで」という「ねがい」が不思議な「ひかり」として届いたのですから、もう綱を必死に握りしめている必要はありません。「あゝ、もうこのままでいいのだ」と全身の力が抜けていく、これが摂取不捨ということです。

                (第3回 完)

タグ:親鸞を読む
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