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正定業とは [正信偈と現代(その30)]

(2)正定業とは

 偈文2で本願(ねがい)が建立され、それが名号(こえ)となってわれらに届けられることが語られ、偈文3で本願はまた光明(ひかり)となってわれらを照らすことが詠われていました。そしてここ偈文4にきて、名号と光明はわれらに届いて信心となり、それが直ちに救い(等覚と涅槃)となることが述べられるのです。ここでは名号との関係で第十七願が、信心との関係で第十八願が、そして救いとの関係で第十一願が一気に登場してきて、きわめて内容の濃い箇所ですので、一つひとつ解きほぐしながら見ていきましょう。
 まず「本願名号正定業」ですが、親鸞は上の解説でこれを端的に「選択本願の行」と言っています。ここで「選択」が意味するのは、名号は選び抜かれた行であるということです。自分の深い「ねがい」が一切衆生に届くにはどうすればいいかを法蔵菩薩が五劫思惟し、その結果として選ばれたのが南無阿弥陀仏という「こえ」であるということ。諸仏が自分を讃えて南無阿弥陀仏と称える「こえ」が世界の隅々にまで行き届くようにしたい、これが第十七願です。
 「本願の名号は正定の業なり」ということばを聞きますと、われらがなすべき業(行い)としての名号、すなわち称名ということに意識が向かってしまいます。称名がわれらのなすべき行であることは間違いありませんが、ただしかし、われらの称名にはそれに先立って諸仏の称名があるということ、これを忘れるわけにはいきません。われらが南無阿弥陀仏と発信するには違いないのですが、それは諸仏の南無阿弥陀仏を受信しているからこそであるということ、これが肝心要です。
 すべての発信は受信であるというデリダの指摘を思い起こしたい。われらが「帰りたい」という「こえ」を発信するのは、それに先立って「帰っておいで」の「こえ」を受信しているからであるということです。「帰っておいで」の受信があってはじめて「帰りたい」の発信があるのであり、その逆ではないということ。そして、どこから「帰っておいで」の「こえ」がするのかという疑問に、『無量寿経』は諸仏が声をそろえてそう呼びかけているのだと語ってくれるのです。

タグ:親鸞を読む
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