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信心とは [正信偈と現代(その31)]

(3)信心とは

 そして「至心信楽願為因」。至心信楽の願すなわち第十八願の信心が往生の因となるという意味です。
 名号が本願の行であると言った上で、しかし名号は信心がなければ用をなさないことが述べられるのです。法蔵の「ねがい」が南無阿弥陀仏の「こえ」となって一切衆生に届けられるのですが、それが実際に届かなければ何にもなりません。そしてこの「こえ」が届くことが信心に他なりません。「こえ」に信心が付け加わることで届くようになるのではありません、「こえ」が届くことが取りも直さず信心です。これまでは何か障害があって「こえ」が届かなかったのが、その障害がなくなってすっと届いた、これが信心です。
 ここでもう一度「信楽」ということばの元である「プラサーダ」に立ち返りますと、これは「濁っていたこころが澄む」という意味でした。前には濁っていた河の水がさあーっと澄むというイメージで語ってきましたが、今度は雑音で濁っていた音がすっと澄み、透明な音が聞こえるというイメージで考えてみます。いつごろからか「耳鳴り」を意識するようになりました。それほど気になるわけではありませんが、どうかすると耳の奥で「ジージー」と音がして、人の声が聞き取りにくくなってきたのです。むかしはテレビドラマをよく観たものですが、会話の端々が聞き取りにくくて、それがストレスとなり、最近ではもうほとんど観ることはありません。
 おそらく俳優の声は届いているのに(隣にいる妻にはちゃんと聞こえているのですから)、うまく聞こえないのは、余分な「ジージー」という音が邪魔しているからです。もしこの雑音が取れれば鮮明に聞こえるに違いありません。それと同じように南無阿弥陀仏の「こえ」も届いているはずなのに、何かが邪魔して届かない。信心とは南無阿弥陀仏の「こえ」が届くことに他なりませんから、それはその「こえ」に何かをつけ加えるのではなく、むしろ何か障害になっているものが取り去られることです。

タグ:親鸞を読む
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