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「わたし」が邪魔もの [正信偈と現代(その32)]

(4)「わたし」が邪魔もの

 邪魔している何かが取り去られたら南無阿弥陀仏の「こえ」はおのずから聞こえるはずです。ではいったい何が邪魔しているのか、何が雑音を発しているのかと言いますと、それは他ならぬ「わたし」(の意識)です。自分のなかから出てくる「ジージー」という耳鳴りが人の声を聞きにくくしているように、「わたし」が邪魔をして南無阿弥陀仏の「こえ」が聞こえないようにしているのです。
 どうしてそう言えるかといいますと、もしその障害物が「わたし」以外の何かだとしますと、すぐそのことに気づくからです。例えば誰かが話しているときに、ラウドスピーカーでガーガーやられますと、途端に話し声が聞こえなくなりますが、その原因は探すまでもありません。でも「わたし」自身が邪魔をして南無阿弥陀仏の「こえ」を遮蔽しているとしますと、どうして聞こえないのか分からないままです。
 いや、こう言うべきでしょう、南無阿弥陀仏の「こえ」が聞こえませんと、聞こえないということもありません。聞こえるもなければ、聞こえないもないのです。南無阿弥陀仏の「こえ」が聞こえないというのは、すでにしてひとつの気づきなのです。何かが聞こえるとか聞こえないということは、聞こえてはじめて言えることであり、聞こえなければ聞こえないこともありません。気づきの否定は、気づきそのものを前提にしていますから、気づきそのものがないところでは気づきの否定もありません。
 さて「わたし」が邪魔をして南無阿弥陀仏の「こえ」が聞こえないようにしているとしますと、その邪魔者を自分で取り除くことはできません。「わたし」が「わたし」を取り除くのは、自分で自分の影を消そうとするようなものです。自分の影を消すためには自分を消すしかありません。どういうわけか、あるときふと南無阿弥陀仏の「こえ」が聞こえて、そのときはじめて、あゝ、これまでもこの「こえ」が聞こえていたのに、それを「わたし」がブロックしていたのだと気づくのです。

タグ:親鸞を読む
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