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浄土への旅立ち [正信偈と現代(その34)]

(6)浄土への旅立ち

 親鸞が「成等覚証大涅槃」と言うとき、等覚と涅槃とはひとつづきのものであり、ここまでが等覚で、その先が涅槃というように分けられるものではないでしょう。われらにとっては実際には等覚しかなく、涅槃というのはその先にあるであろう到達点にすぎません。涅槃とは、われら凡夫がわれら凡夫である限り到達できないという否定的な意味でしか存在しません。涅槃に到達した立場(仏の立場)から言えば、ここまでが等覚で、ここからが涅槃と明確に分離できるでしょうが、涅槃に到達できない立場(凡夫の立場)からすれば、どこまでも等覚であり、涅槃はいわば虚焦点に過ぎないのです。
 まだ等覚に過ぎないとみるか、もうすでに等覚とみるか。まだ仏ではないとみるか、もうすでに仏とひとしいとみるか。親鸞の「現生正定聚」の感覚からしますと、もうすでに等覚であり、もうすでに仏とひとしいのですから、それ以上に何を望むことがあろうかということです。正定聚となった以上、未来には滅度が待っているだろうが、たとえ滅度に至らなくても「さらに後悔すべからずさふらふ」(歎異抄、第2章)という感覚。これが蓮如の二益説からは感じられないのです。
 あらためて浄土への旅をイメージしてみましょう。往生とは浄土へ旅立つことです。その旅立ちは信心をえたそのときにはじまる、これが「信心さだまるとき往生またさだまる」(末燈鈔、第1通)の意味です。「往生さだまる」を「浄土への旅の切符をえる」ことと生ぬるく理解すべきではありません。それでは蓮如の二益説になってしまう。これは旅の切符を後生大事に握りしめ、ひたすら旅のはじまりを待つというイメージで、これでは今生はただの待ち時間になってしまう。そうではなく、信心さだまるときが旅立ちのときです。正定聚とはすでに浄土へ旅立った人です。
 浄土へ向けて旅立ったのですから、かなたに浄土はあることでしょう。そしておそらくは浄土に到達できることでしょうが、もし浄土に到達できないことがあっても、それはそれでかまわない。浄土への旅そのものがすでにして救いですから。

タグ:親鸞を読む
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