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かのくにに生ずるものは [正信偈と現代(その36)]

(8)かのくにに生ずるものは

 さて最後の「必至滅度願成就(必至滅度の願、成就なり)」です。第3句に詠われた「成等覚証大涅槃(等覚を成り、大涅槃を証する)」を誓うのが第十一願、必至滅度の願で、それが成就したことが『無量寿経』下巻の冒頭にこう言われます、「かのくにに生ずるものは、みなことごとく正定の聚(しょうじょうのじゅ、かならず仏になれる者)に住す。ゆへはいかん、かの仏国のうちにはもろもろの邪聚(じゃじゅ、仏になれない者)、および不定聚(ふじょうじゅ、仏になれるかどうか定まらない者)なければなり」と。前半のもとの経文は「生彼国者、皆悉住於正定之聚」で、親鸞までは「かのくにに生まるれば、みなことごとく正定の聚に住す」と読んでいたのですが、親鸞はそれを「かのくにに生ずるものは、みな云々」と読んだのです。
 「生彼国者」の「者」を「ば」と読むか、「もの」と読むか。
 第十八願の「若不生者」は「もし生まれずば」と読みますから、「生彼国者」も「かのくにに生まるれば」と読むのが普通です。ところが親鸞はこれを「かのくにに生ずるものは」と読むのです。その意図は明らかでしょう。「かのくにに生まるれば」ですと、かのくにに生まれてからのことになりますが、「かのくにに生ずるものは」と読みますと、まだこのくにに生きている間のことになります。かのくにに生まれてから正定聚になるのか、このくにに生きている間に正定聚になるのか、親鸞は断固として後者をとります。これが現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)です。
 曽我量深氏は、こんなふうに言います、親鸞は「生彼国者」の前に「願」をつけて読んでいたに違いないと。「かのくにに生ぜんと願ずるものは」と読んでいたはずだというのです。親鸞の読みには脱帽ですが、量深氏の読みもそれに勝るとも劣らないのではないでしょう。今生において「帰っておいで」の声が聞こえ、それに呼応して「帰りたい」と願ったものは、「みなことごとく正定の聚に住す」。みなことごとく帰れることに定まった、と。そのとき浄土への旅がはじまるのです。
 第十一願には「くにのうちの人天、定聚に住し、必ず滅度に至らずば正覚をとらじ」とあるのに、その成就文には「かのくにに生ずるものは、みなことごとく正定の聚に住す」とだけあり、滅度についてはふれられません。こんなところにも正定聚と滅度はひとつであることがうかがえます。正定聚のなかに必至滅度はすでに含まれていますから、わざわざ滅度のことを言う必要はないということです。

                (第4回 完)

タグ:親鸞を読む
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