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釈迦はどうして弥陀の本願を [正信偈と現代(その38)]

(2)釈迦はどうして弥陀の本願を

 「如来所為興出世(如来、世に興出したもう所以は)」の如来とは諸仏のことだと親鸞は解説していますが(そしてそれは仏教を閉じられた宗教にしてしまわないために大事な観点ではありますが)、われらに直接関係してくるのは釈迦如来です。それは親鸞自身が「応信如来如実言」の如来については釈迦如来であるとしていることからも確認できます。ですから初めの二句は、釈迦如来がこの世に出でたもうたのは、ただ弥陀の本願を説くためであるというように理解していいと思います。
 これは親鸞も解説のなかで言っていますように『無量寿経』がとっている基本スタンスで、ここには深く考えなければならないことがあります。
 釈迦はどうして自分自身の教えを説こうとしないで、弥陀の教え(本願)を説くのか。前にみましたように(第2回)、弥陀の因位・法蔵菩薩は釈迦をモデルとしているのは明らかです。国王となるべき身を捨て、衆生済度のために修行僧となったという設定ですが、どうしてそんな手の込んだやり方をしなければならないのでしょうか。釈迦は、自分は国王の地位を捨て、厳しい修行をして、あるさとりに達したのだと説けばいいのに、どうして法蔵菩薩の物語を語らなければならないのか。
 前には物語(フィクション)のことばでしか語れない真理があると言いましたが、それを今度は別の角度からとらえ直したいと思います。
 結論を前もって言っておきますと、釈迦にとって「真理はすでに語られている」ということです。自分が真理をはじめて語るのではなく、真理はとうのむかしに語られている。自分はそれに気づいて、それをまた人々に伝えていくだけであるということ。真理は新しく見いだされるものではなく、もうむかしに、どんなむかしよりもっとむかしにすでに語られている、それにただ気づくだけだということ、これが「如来、世に興出したまうゆえは、ただ、弥陀本願海を説かんとなり」の意味です。

タグ:親鸞を読む
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