SSブログ
正信偈と現代(その42) ブログトップ

仏教は他力である [正信偈と現代(その42)]

(6)仏教は他力である

 「如来、世に興出したまうゆえは、ただ、弥陀本願海を説かんとなり」という文は「仏教は他力である」ことを宣言しています。真理はみずからつかみ取るものではなく、向こうから与えられるものであるということ、釈迦もまた真理をみずからつかみ取ったのではなく、向こうから与えられたのであるということです。釈迦がはじめて真理を語ったのではなく、すでに語られている真理を聞いたということです。釈迦は「真理のことば」を聞き、それを弥陀の本願として、南無阿弥陀仏として伝えてくれたからこそ、われらもそれを通して「真理のことば」を聞くことができるのです。
 それが『歎異抄』第2章にこう言われています。「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈、虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然のおほせそらごとならんや。法然のおほせまことならば、親鸞がまうすむね、またもてむなしかるべからずさふらふ歟」と。釈尊が説くことが虚言ではないといえるのは、釈尊が「これが真理だ」と勝手に言っているのではなく、「わたしは真理をこのように聞いた」と言っているからだということです。そしてそれが南無阿弥陀仏として善導へ伝わり、また善導から法然へ、さらに法然から親鸞へとリレーされてきたのだと。
 これが他力ということです。
 さて「真理のことば」がすでに語られていると言ってきました、釈迦はそれを聞いただけだと。その事実を釈迦は弥陀の本願に遇ったと語り、南無阿弥陀仏を聞いたと伝えてくれたのですが、これは一体どこからやってくるのだろうという思いが浮かび上がってきます。弥陀の本願というのですから、弥陀からには違いないのですが、その弥陀はどこにおわすのか。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
正信偈と現代(その42) ブログトップ