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本願海と群生海 [正信偈と現代(その44)]

(8)本願海と群生海

 親鸞は弥陀の本願を本願海と言いますが、これは本願が海のように深くまた広いからに違いありません。『無量寿経』に「如来の智慧海は、深く広くして涯(きわ)と底となし(深広無涯底)」とあるのによっているのでしょう。そして「五濁悪時の群生海、まさに如来如実の言を信ずべし」とあって、本願海に群生海が対応していますが、ここでも、こちらに群生海があり、あちらに本願海があるという関係ではありません。そういう関係でしたら、群生海から本願海に行くということになり、それは未来に待たなければなりません。それでは「臨終の来迎を待つ」という伝統的な浄土教に先祖返りしてしまいます。そうではなく、この群生海が群生海のままですでに本願海であるということです。
 しかし迷いの世界である群生海がそのままで本願海であるとはどういうことか。「真理のことば」が、本願の招喚として、「南無阿弥陀仏」の声としてすでに群生海に来ているということです。『唯信鈔文意』にこうあります、「この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなわち一切群生海の心なり」と。これまでも述べてきましたように、如来とはタター(如、真如)からアーガタ(来れり)という意味で、真理そのものがすでに到来しているということを表しています。如来はあちらにおわすのではなく、こちらに来ているのです。としますと、ここ群生海にはとうのむかしから本願が来ているのですから、ここはもうすでに本願海なのです。
 たしかに個々の群生から言いますと、本願の招喚(「帰っておいで」の声)は自分の外からやってきます。自分で自分を招喚しても何の意味もありません、向こうから招喚されてこそ救いとなるのです。でも本願からいいますと、個々の群生はもうとうのむかしからその中にいるのです。「この如来、微塵世界にみちみちたまへ」るのです。ただそのことに気づくかどうか。気づけばそのとき、この群生海はそのままで本願海です。でも気づかなければ、ここはただの苦海にすぎません。いや、苦海という自覚もないまま、ただ生死の迷いをさまようばかりです。

                (第5回 完)

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