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一念喜愛の心 [正信偈と現代(その46)]

(2)一念喜愛の心

 先回の最後に、群生海がそのままで本願海であるという話をしましたが、そのことに気づくのが、「能発一念喜愛心」のときです。
 それは、『歎異抄』第1章では「念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき」と言われ、『教行信証』「信巻」には「信楽開発の時剋の極促」とあります。親鸞以前の浄土教では、時間の流れを大きくその前後に区切るのは臨終のときです。そのとき娑婆に別れを告げ、浄土に迎えていただくのですから、成否を決するのはまさにその瞬間にあると言えます。念仏者はみな息をひそめてそのときを待った。しかし親鸞においては、一念喜愛の心がおこるとき、念仏申さんと思い立つこころのおこるとき、信楽開発の時剋の極促こそ、時間をその前後に区切る決定的なときです。
 この「とき」に思いを致したい。
 「能発一念喜愛心」は「能く一念喜愛の心を発すれば」と読みますが、どうかすると、われらが何か一大決意をするような印象を与えてしまいかねません。そうではないことを親鸞は「一念慶喜の真実信心よくひらけ」と解説してくれています。われらが「一念喜愛の心」を発するのではなく、そのこころが自然にひらけてくるのです。「念仏申さんと思い立つこころのおこるとき」も、「思い立つ」という言い方からは決意のニュアンスが漂いますが、「こころのおこる」とあることから、これはわれらが「おこす」のではなく、自然に「おこる」ことなのだと了解できます。「信楽開発」も同様で、われらが信楽を「開発する」のではなく、信楽が向こうから「開け、おこってくる」のです。
 その「とき」がくることを「時が熟する」と言ったり、「宿善が開発する」といったことばで表現されたりします。あるときふと本願の招喚に遇い、そのときこれまでの生が終わり、まったく新しい生が始まるのです。

タグ:親鸞を読む
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