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前念命終、後念即生 [正信偈と現代(その47)]

(3)前念命終、後念即生

 時間はいつでも均一に流れていくというのが、ふつうの感覚です。嬉しいときは速く感じ、辛いときは遅く感じることはありますが、でも一瞬も途切れることなく流れていく。ところが時間がとつぜん断絶することがあるのです。これまでの時間が終わり、新たな時間が始まる。善導は『往生礼讃』のなかで「前念命終、後念即生(前念に命終して、後念にすなわち生ず)」と言っていますが、これは文字通り命終のときで、今生が終わると、ただちに浄土に生まれるということです。
 ところが親鸞はこのことばを信楽開発のときに移し、こう言います、「本願を信受するは前念命終なり、即得往生は後念即生なり」(『愚禿鈔』)と。
 本願を信受したとき、これまでの迷いの生が終わり、新たに正定聚としての生が始まるということです。世界が変わるわけではありません、これまでと何も変わらない娑婆世界です。でもその「見え」が一変するのです。あるいはこう言ってもいい、時間のなかに、ふいと永遠が姿をあらわすと。時間が止まるのではありません、これまで同様に流れているのですが、その裏側に永遠がその姿をあらわすのです。時間は時間のままですが、同時に永遠の相を見せるようになる。
 それを言うのが「不断煩悩得涅槃(煩悩を断ぜずして涅槃をう)」です。
 しかし、煩悩をもったまま涅槃をうるというのは、どうにも解しがたい。煩悩がある以上、涅槃ではないし、涅槃に至った以上、煩悩はないはずです。そこでこれまた命終わった後のことと解釈されます。煩悩をもったまま命を終え、そのままただちに浄土に往生して涅槃をえると。なるほどこう考えれば矛盾から逃れられ、すっきりするでしょう。がしかしそれでは、いちばん肝心の「現生正定聚」が台なしになってしまいます。あくまで「能発一念喜愛心」のときに「不断煩悩得涅槃」ですから、これを臨終のときに先送りするのは親鸞を歪めるものと言わなければなりません。

タグ:親鸞を読む
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