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煩悩を断ぜずして涅槃をう [正信偈と現代(その48)]

(4)煩悩を断ぜずして涅槃をう

 「煩悩がある以上、涅槃ではない」と言いました。たしかに、どの辞書を見ても涅槃(ニルヴァーナ)とは「煩悩の火が完全に吹き消された境地」であり、「さとり」に他ならないと書いてあります。そこから言えば「煩悩を断ぜずして涅槃をう」はあからさまな矛盾です。もし煩悩、涅槃というものが客観的な存在として定義され、そのふたつが互いに相いれないとしましたら、「煩悩を断ぜずして涅槃をう」はナンセンスとして即座に退場を命じられるでしょう。しかし煩悩も涅槃も「かくかくしかじかなものである」と客観的に存在するものとして定義できるでしょうか。
 煩悩は辞書的には「貪り、瞋り、愚かさのことである(これを三毒と言います)」とされます。貪りも瞋りも愚かさも客観的に存在するものと言えますが、しかし親鸞は『唯信鈔文意』において「煩は身をわづらはす、悩はこころをなやます」と教えてくれます。としますと、例えば「貪り」で言えば、何かを貪ること自体が煩悩ではなく、貪ることで「身をわづらは」し、「こころをなやます」から煩悩であるということです。もしある人が何かを貪りながら、そのことで「身をわづらは」し、「こころをなやます」ことがなければ、その人にとってどこにも煩悩はありません。
 煩悩は、どこかに客観的にあるのではなく、それに気づいた人にはじめて姿をあらわすものであるということです。涅槃も同じように主観的なものと考えていいでしょう。
 さてそのような主観的なものについて矛盾ということが言えるものでしょうか。矛盾ということばの成り立ちから考えてみましょう。ある人が「この矛はどんな盾もつらぬく」と言い、同時に「この盾はどんな矛もはねつける」と言ったとき、それが矛盾です。ではAさんが「この矛はどんな盾もつらぬく」と言い、Bさんが「この盾はどんな矛もはねつける」と言った場合はどうか。これは二つの独立した言明ですから、いずれかが誤っているだけで、対立はしていますが矛盾しているわけではないでしょう。どちらが誤っているかは、実際にその矛と盾で戦えば明らかになります。

タグ:親鸞を読む
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