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あっ、これは煩悩だ [正信偈と現代(その49)]

(5)あっ、これは煩悩だ

 人から理不尽な扱いをされて、怒りがこみ上げるという場面を想像してみましょう。そのとき「あっ、これは煩悩だ」と感じるかどうか。もし感じなければ、ただ怒りがこみ上げるだけです。怒りがこみ上げるのはごく当たり前のことであり、そのことについていいとも悪いとも思わない。問題は「これは煩悩だ」と感じるときです。煩悩と感じるというのは、前にみましたように、そのことで「身をわづらは」し、「こころをなやます」ことです。それは「こんなことでどうして怒りを」と思うことに他ならず、ここにはすでにしてひとつの懺悔があります。
 具体的に考えてみましょう。レストランで順番待ちをしていて、どういうわけか自分の番が飛ばされたようなとき、無性に腹が立ちます。おそらくは店員さんのうっかりミスでしょうが、そう思っても怒りの虫が収まりません。「どうなってるんだ」と刺々しい声を上げたりします。どうしてでしょう。自分が無視されたと思う、もっと言うと、自分が「生きんかな」としているのに、それをないがしろにされたと感じる。これが怒りの元にあるのではないでしょうか。
 野生の動物が人間に牙をむいて襲いかかってくることがありますが、あれも彼らの「生きんかな」がないがしろにされたからに違いありません。しかし彼らはそんなことを意識するわけではありません、ただただ内からの衝動にしたがっているだけです(スピノザはこの衝動こそ生きものだけでなくあらゆる事物の現実的本質であると考えました)。野生の動物たちはそんな衝動があることを意識していないのですが、人間はふとそれに気づくことがあります。「どうなってるんだ」と怒りをぶちまけながら、「あゝ、これはヒグマがおらぶのと何も変わりないじゃないか」と思い、恥ずかしくなるのです、「どうしてこんなことで怒りを」と。

タグ:親鸞を読む
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