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苦しみの正体 [正信偈と現代(その50)]

(6)苦しみの正体

 「これは煩悩だ」と感じるとは、「あゝ、これは“生きんかな”の衝動だ」と気づくということです。
 そんなふうに感じることなく、そんな衝動に気づくことがなければ、どうってことはありません、「どうなってるんだ!」とおらぶだけのことです。しかしそのことに「お恥ずかしい」という思いがおこったとき、「身をわづらわ」し、「こころをなやます」ことになります。「どうなってるんだ!」とおらぶこと自体がほんとうは苦しいことですが(実際、怒りはものすごい量のエネルギーを消費します)、でも煩悩の気づきがなければ、それを苦しいとも思いません。ただひたすら怒りの衝動に身をまかせるだけです。「これは煩悩だ」の気づきがあってはじめて苦しいと思う。
 そして「あゝ、煩悩が苦しみをもたらしているのか」と思ったそのとき、何ということでしょう、もう苦しみが苦しみでなくなるのです。そのあたりの消息を、またスピノザですが、こんなふうにうまく言い当ててくれています、「自分の中にある苦悩を明晰・判明に表象した途端に、苦悩は苦悩であることをやめる」(『エチカ』)と。「苦悩を明晰・判明に表象」するというのは、分かりやすく言えば、苦しみの正体をつかむということです。苦しみの正体を見定める。
 病がもたらす苦しみを考えてみましょう。激痛に襲われたとき、激痛そのものが苦しいのは言うまでもありませんが、それにもまして痛みの正体が分からず、いつまで続くかも分からないことが苦しい。その証拠に、医者から激痛の原因を告げられ、薬を処方されて、「まあ、二三日もすれば治まりますよ、心配いりません」と言われますと、ほっと胸をなでおろします。それでただちに激痛が治まるわけではありませんが、でも、これまでとは痛みの性質が異なっています。痛いには違いないが、やわらかい痛みになっていると言えばいいでしょうか。
 これが「煩悩を断ぜずして涅槃をう」ということです。

タグ:親鸞を読む
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