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一味なるがごとし [正信偈と現代(その51)]

(7)一味なるがごとし

 群生海がそのままで本願海であること、煩悩の海がそのままで涅槃の海であることを見
てきました。それに次いで親鸞はこう言います、「凡聖・逆謗、斉しく廻入すれば、衆水、海に入りて一味なるがごとし」と。その海に入れば、凡夫も聖人も、さらにはとんでもない極悪人もみな一味になるというのです。一味はこの場合、もとの川水はいろいろでも、海に入ればみな同じ塩辛い味になるということですが、一味には「仲間」という意味もあります。「彼は強盗の一味だ」というように。海のなかでは、敵も味方もなく、みな同じ仲間だということです。
 涅槃とは平和な世界ということです。そこには争いがない。敵も味方もなく、みな手を取り合って生きていける。
 しかし現実の世界は争いが絶えません。日本は平和な国だと言われますが、でもそこら中に小さな戦争があふれています。家庭においても、学校や会社においても、地域においても、やれ敵だ味方だと言いあっています。またあのキング牧師のことばが頭に響きます。「I have a dream that one day on the red hills of Georgia, the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood.(私には夢がある。いつの日かジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫たちとかつての奴隷所有者の子孫が同胞として同じテーブルにつくことができるという夢です)」。
 現実は「the sons of former slaves」と「the sons of former slave owners」とが激しく憎しみ合っています。現にキング牧師はこの演説からまもなく白人の凶弾に倒れました。そんな争いの坩堝であるこの世界がそのまま涅槃の世界であるというのはどういうことでしょう。

タグ:親鸞を読む
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