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無明の闇 [正信偈と現代(その55)]

(3)無明の闇

 「無明のやみはれ、生死のながきよすでにあかつきになりぬ」というなかに「無明のやみ」とあり、「生死のながきよ」とありますが、これは「弥陀の心光」が射し込むことによりはじめて明らかになったのであり、それまでは「無明のやみ」でも「生死のながきよ」でも何でもありません。「弥陀の心光」は「弥陀の心光」をあらわすとともに、はじめて「無明のやみ」、「生死のながきよ」を明るみに出したのです。ぼくらは「弥陀の心光」に遇うことで、「あゝ、これまでは無明の闇のなかにいたのだ、生死の長き夜をすごしていたのだ」と気づかされるのです。
 逆に言いますと、「これまで無明の闇のなかにいた」と気づくことは、すでに「弥陀の心光」に遇ったということです。
 無明といいますと、真理に暗いこと、真理を知らないことですが、無明に気づいたということは、すでにして真理の明るみのなかにいることです。正真正銘の無明は、無明であるのに無明であることに気づいていないこと、自分は無明ではないと思い込んでいることです。ソクラテスの「無知の知」を思い出します。デルフォイの神託で「ソクラテス以上の智者はいない」と聞かされたソクラテスは戸惑います。世にソフィストすなわち智者とよばれる人はたくさんいるのに、この自分が智者であるとはどういうことだろう、と。彼が得た結論は「自分は無知であることを知っているが、世のソフィストは無知であるにもかかわらず智者であると思い込んでいる」ということでした。その一点で自分がほんとうの智者ということになると。
 これはプラトンが伝えてくれている話ですが(『ソクラテスの弁明』)、きわめて大事なことを教えてくれます。ソクラテスは「無知の知」をみずから手に入れたのではなく、(神託により)与えられたということです。「無知の知」、「無明の自覚」はみずから得ることができないのです。なぜそんなことが言えるか。

タグ:親鸞を読む
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