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貪愛瞋憎の雲霧 [正信偈と現代(その57)]

(5)貪愛瞋憎の雲霧

 「摂取心光常照護(せっしゅしんこうじょうしょうご)」のあと「已能雖破無明闇(いのうすいはむみょうあん)、貪愛瞋憎之雲霧(とんないしんぞうしうんむ)、常覆真実信心天(じょうふしんじつしんじんてん)」と続きます。摂取の心光により無明の闇ははれたのに、空には貪愛瞋憎の雲がかかって、信心の天を覆っているというのです。これは「無明の闇がはれる」とは実際にはどういうことかを教えてくれます。ぼくらはひかりが射し込んで闇がはれると聞きますと、これまで真っ暗闇だったところに急にひかりがいっぱいあふれるというようなイメージを懐きます。ところが実際は太陽のひかりがギラギラ輝くのではなく、空には分厚い雲が覆っている曇天だと言うのです。
 無明の闇がはれることで何が明らかになるかと言いますと、無明であるというそのことです。無明がはれるとは無明を無明と気づくだけのことというのは、何かきつねにつままれたような感じです。無明から明へ、ではなく、無明から無明へ。これはしかし夜明けのひとときを考えてみれば納得できます。夜明けとは、深夜がとつぜん真昼になるのではありません、これまで真っ暗だったのが徐々に明るさを増していくのです。すべての事物が暗闇になかに溶け込んでいたのですが、一つひとつが次第にその姿を現してくるのです。そこにはもうすでにひかりがさしているのはたしかですが、でもまだ闇がいたるところに残っています。
 闇一色だったときは、そこがひかりでないのはもちろん、闇でもなかったのですが、ひかりがさしてくることで、ひかりはひかりになり、闇が闇になるのです。これは太陽のひかりではなく月のひかりで考えた方がよく分かるかもしれません。太陽がギラッと照り付けますと、照らされたところはあくまで明るく、影となったところは暗く沈みます。そのコントラストがくっきり。でも月光に浮かび上がる光景は、全体が薄明るく、また全体が薄暗い。そこではひかりと闇がまざりあっています。「摂取の心光」に遇うというのは、太陽光にギラッと照り付けられるのではなく、月光にやわらかく包み込まれるのです。

タグ:親鸞を読む
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