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雲霧の下あきらかにして [正信偈と現代(その58)]

(6)雲霧の下あきらかにして

 禅宗などで「悟りをひらく」と言うときは、雲一片もない青空のような境地がイメージされるのでしょうが、浄土教で「摂取の心光にてらされる」と言うときは、分厚い雲に覆われた曇天のイメージです。「悟りをひらく」というのは、真理をわがものとするということですから、真理はなにものにも覆われていないでしょうが、「摂取の心光にてらされる」ときは、分厚い雲が真理を覆っています。でも心配ご無用、「譬如日光覆雲霧(ひにょにっこうふうんむ)、雲霧之下明無闇(うんむしげみょうむあん)」です。どれほど分厚い雲に覆われていても、その下は十分に明るいということです。
 これは先に(偈文6)「煩悩を断ぜずして涅槃をう」と言われていたのと同じことです。煩悩を断絶することができるのでしたら、雲一片もない青空の下で生きることができるでしょうが、摂取の心光にてらされても煩悩が消えるわけではありませんから、煩悩という分厚い雲がたれこめている下で生きるしかありません。しかし煩悩の雲がどれほど分厚くても、摂取の心光はそれで遮られるわけではありません。そこには十分な明るさがあり、不安なく生きていくことができるのです。
 さてしかし、この「貪愛瞋憎の雲霧」というイメージからは、煩悩と心光が互いに相いれない関係であるかのように受け取られる可能性があります。煩悩の雲が厚ければ厚いほど、摂取の心光はその明るさを減じるのではないかというように。でも両者の関係はそんな背反的なものではなく、むしろ互いに他を必要とし合う関係です。摂取の心光があるからこそ、煩悩の雲がその姿をあらわすのであり、また煩悩の雲がその姿をあらわすからこそ、摂取の心光の存在が明らかになるのです。
 これは浄土真宗の教学で「機法一体」と言われてきたことに他なりません。救われない機があるからこそ、それを救う法があり、救う法があるからこそ、救われない機が救われるのです。機と法のどちらが欠けても完結しない。この関係を分かりやすく言ってくれるのが『歎異抄』第9章の親鸞と唯円の対話です。

タグ:親鸞を読む
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