SSブログ
正信偈と現代(その59) ブログトップ

煩悩があるからこそ往生できる [正信偈と現代(その59)]

(7)煩悩があるからこそ往生できる

 唯円が「信心をえましたら歓喜踊躍のこころがおこるはずですのに、一向に喜べないのはどうしたことでしょうか。また往生が定まりましたら、いそいで浄土へまいりたいと思うはずですのに、娑婆に恋々としているのはどういうことでしょうか」と(多分おそるおそる)問いかけたのに対して、親鸞は「いや、わたしも同じです」と答えます。喜ぶべきことを喜べないし、またいつ死んでもいいとも思えない。それどころか、ちょっと病気にでもなれば、死んでしまうのではないかと心細くなります、と言うのです。ここに親鸞の真骨頂があります。自分のこころの内を包み隠さず、仏弟子としてこんなことを言うのは恥ずかしいと思われることも真っ正直にさらけ出すのです。
 そしてこう言います、「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだむまれざる安養の浄土はこひしからずさふらふこと、まことによくよく煩悩の興盛にさふらふにこそ」と。もうすでに摂取の心光にてらされるという喜びをえたはずなのに、苦悩の旧里がすてがたいのは、よくよく煩悩の所為だと言うのです。そしてこのあとの論の進め方が見ものです。ふつうの理屈ですと、やはり煩悩が障りになっているのだから、それを何とかしないことには、となっていくはずです。でも親鸞はこう言うのです、「いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じさふらへ」と。
 煩悩があることは往生の障りになるどころか、煩悩があるからこそ往生できるのだと言うのです。
 「他力の悲願は、かくのごときの(煩悩具足の)われらがため」にあるのだからというのですが、それは「煩悩の気づきと往生の気づきはひとつ」ということです。煩悩の気づき(機の深信)と往生の気づき(法の深信)は別ものではありませんから、もし煩悩の気づきがないなら、そこに往生があるはずがありません。「踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまいりたくさふらはんには、煩悩のなきやらんと、あやしくさふらひなまし」というのは、そのことです。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
正信偈と現代(その59) ブログトップ