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たての関係、よこの関係 [正信偈と現代(その61)]

(9)たての関係、よこの関係

 「たて」の関係と言いますと、おのずから上下の関係ということになります。一方が上に立ち、他方が下に控える。それに対して「よこ」の関係は、上下の隔たりのない平等な関係です。娑婆世界は「たて」の関係が普通で、「よこ」の関係は例外的でしょう。何もしないで放っておくと、おのずと「たて」の関係になりますから、「よこ」の関係はよほど意識的に守ろうとしなければ保つことができません。平等な社会をめざす革命組織のなかにも、いつのまにか上下の位階が忍び込んでくるものです。
 位階秩序の俗世間を離れて比叡山延暦寺に入っても、そこには出家僧たちの間に歴然とした位階秩序がありました。仏の道にも「たて」の関係があり、それは大僧正を頂点として、僧正、僧都、律師と続きます。伝えられるところでは親鸞は比叡山で堂僧をつとめたそうですから(恵信尼文書)、位階秩序の底辺にあったと言えるでしょう。普通はそこから立身出世をめざすのでしょうが、親鸞は29歳にしてそこから降りたのでした。比叡山から下りるということは、取りも直さず位階秩序から降りるということです。
 仏の道にも位階があり、それを一つひとつ昇っていかなければならない、これが自力聖道門の「たてさま」の世界です。それに対して他力浄土門は「よこさま」の世界ではないか、という問題提起をしたのが親鸞でした。
 有名なエピソードが伝えられています(『歎異抄』後序)。法然の吉水御坊でのこと、親鸞が「わたしの信心も法然上人の信心もひとつだ」と言ったところ、そこにいた法然の弟子衆が「何をばかなことを言うか、同じ信心であるはずがない」と気負い立った、と言うのです。その弟子衆にとって信心にも「たて」の位階があったのです。しかし親鸞にとって信心は「よこ」の関係としか考えられない。そこで法然上人自身に裁断を仰いだところ、返ってきた答えはこうでした、「源空(法然です)が信心も如来よりたまはりたる信心なり、善信房(親鸞です)の信心も如来よりたまはらせたまひたる信心なり、さればただひとつなり」。

タグ:親鸞を読む
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